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1971年 | 日本俳優連合30年史

約14分
1971年 | 日本俳優連合30年史

-1971年-

この年は日本の、いや世界の歴史の中でも大きなエポックとなる事態の発生した年ですので、少々説明を加えておきましょう。何かって? そう、世界の通貨体制が大きく変わったこと、とくに日本では第2次大戦後に定着していた1ドル=360円体制が終わりを告げた一大変革でした。

1971(昭和46)年8月15日、終戦記念日のこの日にアメリカのニクソン大統領は、突如として、金とドルの交換停止を宣言。戦後の世界経済の体系を規定していたIMF(国際通貨基金)体制の終焉を世界に向けて告げたのでした。IMF体制というのは、第1次世界大戦から第2次世界大戦以降に至る間、世界で圧倒的な経済力を誇っていたアメリカが、自国に集まっていた「金」を経済の基盤と定め、「金」の保有量に見合ったドル通貨を発行して、ドル中心による世界経済の運営のリード役を受け持つことにした所謂西側諸国のための経済体制です。ドルの発行量は世界中の「金」の量とリンクしなければなりません。このため、アメリカの通貨であるドルと他の国の通貨との交換レートは常に一定に決められていました。日本の場合は1ドル=360円と決められ、為替市場などは事実上存在しませんでした。これを経済用語では「固定相場制」と呼んでいます。

ところが、アメリカは第2次大戦後も朝鮮戦争やベトナム戦争に関与し、戦費で多額のドルを使いました。とくに泥沼化したベトナム戦争では膨大な出費のうえ、敗退しましたからその出費は大変な額にのぼりました。ドルが多大に出費されれば、その分「金」の保有量は減少します。なぜなら、「金」とドルはリンクしていてドルの保有者が「手持ちのドルを金に換えてくれ」と要求した場合には交換に応じなければならないからです。

ベトナム戦争でドルをばらまいたアメリカは、この金・ドル交換に応じているうちに手持ちの保有金が大量に減少して危機に陥ってしまいました。手持ちの「金」がなくては、IMF体制のリード役を維持することが出来ません。そこでニクソン大統領は「もうこれ以上ドルを持ってきてもアメリカは金には交換しないよ!」と言い放ったのでした。これには世界がびっくりしました。「ニクソン・ショック」と言われる所以です。

そして、これを機に「固定相場制」は「変動相場制」へと移行していきます。この年の12月には、それまで1ドル=360円だったものが1ドル=308円と一気に14%もの円高となり、その後も徐々に円高が進むことになるのです。このことは、少なくとも経済に関する限り、日本にとっての戦後が終わったことを物語っていました。戦後、アメリカ人と言えば誰でもがお金持ちでした。1ドルを持ってくれば、日本で360円の品物が買えたからです。でも、それももう終わり。この年からは308円の物しか買えなくなったのです。そして、円高が進むにつれて、今では100円そこそこの物しか買えません。一方、日本人と言えばその逆で360円出さなければ買えなかった1ドルの物が308円、今では100円そこそこで買えるのです。このように「ニクソン・ショック」は戦後の世界経済に関わる“最大の事件”と言っても過言ではありませんでした。

またも横道に入りすぎました。話を戻します。

総連合構想から「日俳連」結成へ

芸能家総連合構想は、当初、活発な動きを見せました。中でも、「俳優連合」に関しては放芸協が中核となり、1970年8月1日には「新法と芸能家総連合のためのティーチ・イン」を開催したほか、「俳優連合準備委員会」として22人の準備委員も選出しました。この準備委員会は、その後、半年の間に6回の会合を開いて新組織結成への基礎固めを行っています。その結果、1970年(昭和45)年12月23日には「日本俳優連合設立準備会」を置くところまで話が進みました。発起人は「協同組合・日本放送芸能家協会 理事長 徳川夢声」「社団法人・日本俳優協会 会長代行 中村歌右衛門」「社団法人・日本映画俳優協会 理事長 二谷英明」「社団法人・日本喜劇人協会 会長 柳家金語楼」「社団法人・能楽協会 理事長 観世元正」「文楽座 代表理事 竹本津大夫」「日本新劇俳優協会 会長東山千栄子」「新劇団協議会 議長 片山大陸」「名古屋放送芸能家協議会 理事長 舟木淳」「関西俳優協議会 会長 毛利菊枝」の10人でした。そして事務局は放芸協で受け持ちました。

こうした経過を経て、総合連合構想の先陣を切って、現実に「日本俳優連合」が結成されたのが1971(昭和46)年2月8日です。結成総会は銀座電通8階ホールでした。会場には、実に、150人もの俳優が結集しました。

それは、放芸協の設立から数えて8年目を迎えた年の快挙でもありました。当時、放芸協の組織委員長を務めていた浮田左武郎氏は、事ここに至った感慨を機関誌「放芸」41号(1971=昭和46=年1月20日号)に記しています。

「俳優連合とは、この7年余を歩んできた放芸協の終着駅です。始発の時からみなさんが目指し続けたものが、放芸協の軌道の彼方にやっと姿を見せたのです。まもなく古典演劇も新劇も、芸団協傘下の10団体に属す5000名の俳優が、放芸協の団体交渉権を有効に活用する日を迎えるでしょう。(中略)

もともと著作隣接権制度の発展は、俳優である“個人”の権利擁護を基にしてみのり、“団体”の協議体である芸団協だけでは事足りません。俳優連合誕生の産婆役に芸団協がひとかたならぬ協力を惜しまないのはそのためです。(中略)

放芸協総代会は俳優連合への全員参加を決議しました。折角手にした演技権を絵に描いた餅にしたくないために。われら俳優たちの一層の地位の向上のために。“歴史をひらく年は今ぞきたり”。その合い言葉をこだまさせ合おうではありませんか」

では、俳優連合は具体的に何をしようとしていたのでしょうか。

「日本俳優連合」加入のすすめの項では

※出演契約の向上として

1.出演料の基本的改善
2.出演料支払い方法の改善
3.出演諸条件の改善
4.危険保障、災害補償問題等の改善

※老齢年金・失業救済・厚生施設等の実現
※内外の芸能職能団体との提携・協力
※税金問題の改善
社会的地位の向上に関する問題

を列挙しています。いずれも、俳優個人個人にとって切羽詰まった問題の解決に関わることばかりでした。解決への挑戦は、時の流れとともに進められていきますが、それはこれからの本書の記述をを読んで戴くことにします。

さて、ここでは図―1をじっくり眺めていただくことにしましょう。図―2は既にアメリカで実現したユニオンの組織図ですが、日本の場合はこれから作ろうとする理想の姿を図式化したものになっています。

見ていただくと分かるように、音楽、舞踊、演芸とは組織を異にしながら、それでも舞台、放送、映画での演技を職業とするものは一つの「連合」に結集して、団結を図ろうというものでした。従って、この構想段階では、放芸協はこうしたユニオンの有力な「核」であり、日俳連そのものではありません。そこで、協同組合として力を発揮する放芸協はそのまま温存し、日俳連は別途役員を選出して運動方針を進める形式がとられました。

役員選出結果の詳しい人名は、巻末「放芸協・日俳連役員の変遷」一覧表の1971年欄に掲載してありますが、1年限りの暫定役員とは言え、そこには明らかに「連合を育てよう」との意気込みが込められていました。伝統芸の職域と現代劇の分野をうまくミックスし、バランスと意気込みを示したのでした。その意気込みとは、出演条件の改定です。とくにNHKと民放テレビ局各社との団体協約の締結が差し迫った課題でした。

とは言っても発足したばかりの「日本俳優連合」は、法人格を獲得していない一つの任意団体に過ぎません。これでは法律に裏打ちされた団体協約の締結は不可能です。このため、当分の間、放送局など製作会社との交渉は放芸協の役割とし、日本俳優連合は内部の組織固めを進めることにしました。

また、この1971(昭和46)年4月、音声製作会社7社による「紫水会」が結成されています。放芸協が事業協同組合として法人格を獲得し、さらには日俳連が結成されるという動きがある一方、外国映画の吹き替え翻訳を行う放送作家組合(後の日本脚本家連盟)からの条件改定要求も強まる中で、音声製作会社は1社ごとの対応では事態に処しきれないという状況が生まれてきていたのです。外国テレビ映画の輸入・配給業者が「山水会」と名付けた業界団体を結成したのに対応した動きでした。この紫水会が、7年後の1978(昭和53)年3月に「日本音声製作者連盟」(音声連)に発展していきます。

初の海外交流

国際芸能ユニオン連盟(略称・ISETU)が芸団協を通じて日本の芸能実演家との接触を図ってきたのは1970(昭和45)年のことでした。とくに国際的な組織化の遅れている東南アジア地域での話し合いの場の設定が強調され、次のイベント開催には必ず日本から代表を送るよう要請されたのでした。

この要請に呼応する形で初の参加となったのが1971(昭和46)年5月25~27日にフィリピンのマニラで開催された「東南アジア・西太平洋地域第1回芸能関係ユニオンゼミナール」でした。参加国はフィリピン、オーストラリア、香港、日本の4カ国で、日本からは芸団協を代表する形で紙恭輔氏(音楽)、柳家つばめ師匠(演芸)、そして放芸協の理事でもあった江見俊太郎氏が出席しました。

当時、日本で問題になっていたのは外国から日本にきて仕事をするタレントの扱い、輸入外国映画の急増に伴う吹き替えへの出演条件、出回り始めたビデオ・カセットへの二次利用などでしたが、これはセミナーに参加する各国にとって共通する問題でした。ところが、このセミナーでは「音楽家の世界では、こうした問題への対処が一歩進んでいる」ことが知らされたのです。音楽家の世界では、タレントが自国以外の国で活動するためにその国に到着すると、その国のユニオンの支配下に入らなければならないとの取り決めがあり、しかも外国からきたタレントはその国の音楽家が働く機会を奪ってはならない、となっているというのです。出席した江見氏は、他の芸能部門でも同じような取り決めを作ろうではないか、と呼びかけると共に、次回のセミナーは是非東京で開催したいと提案し、賛同を得たのでした。

佐々木考丸理事長にバトンタッチ

日俳連は、発足早々、不幸に見舞われました。放芸協の理事長であり、その行く先では日俳連理事長でもあるものと誰もが考えていた徳川夢声氏が1971(昭和46)年8月1日死去されたのです。病名は急性肺炎。享年77歳でした。徳川氏は、75歳を過ぎた頃から時に疲労感を訴えることがあり、健康に不安を抱えているようなことも述べておられたようですが、それでもお亡くなりになって、周囲は本当に驚いたようでした。

放芸協は、8月9日に「お別れ式」を行った直後の理事会で、筆頭常務理事の立場にあった佐々木孝丸氏を満場一致で理事長に選任しました。佐々木執行部体制がきちんと固められたのは、それから9ヶ月後、1972(昭和47)年5月の放芸協第5回総代会の理事会です。役員の任期満了に伴って実施した総代会後の理事会では、新たに副理事長制を敷くことになり、久松保夫氏が選出されています。そして賦課金も、放芸協発足時の1ヶ月500円から初めての値上げで、1ヶ月600円に改定されました。

また、この年8月13日には、日俳連が東京の都市センターホールに同連合の佐々木孝丸副会長、東野英治郎理事長、二谷英明専務理事をはじめとする76人を集めて、第1回の全国集会を開いています。採択された活動方針の中心には「出演条件改定を目指すルール作り」を据え、力強く前進することが謳われました。

佐藤栄作首相へ直接陳情

組織固めの一環として行われた活動の一つは、後の「外画動画部会」活動の先駆けになる日俳連内部における「外画動画等対策委員会」の基礎作り。また、もう一つは放芸協の成果を継続する形での製作会社との出演条件交渉の実績作りでした。

外国のテレビ映画が日本で茶の間に送られるようになったのは1954(昭和29)年頃からのことですが、これが1956(昭和31)年になると一気に盛んになります。NHKが放送した「ハイウェイ・パトロール」、東京放送の「スーパーマン」、日本テレビの「名犬リンチンチン」など、既に60歳代に達した熟年の方々ならこれらの題名を聞けばさまざまなシーンを懐かしく思い出されることでしょう。そして、外国映画の輸入、放送が活発化すれば、当然吹き替えのために声優はこき使われることになります。また、日本語版のセリフに直す翻訳家の仕事も増えてきます。しかし、こうした忙しさに見合う出演条件や再放送の際の二次使用料の支払いに関しては未整備のまま事が進められていました。

これに対抗する方策として、日俳連は放送作家組合(現在の協同組合 日本脚本家連盟=略称・日脚連)との共同戦線を張ることになります。1971(昭和46)年9月9日には日俳連・日脚連の意見交換が行われ、さらに同13日にはNHK、民放在京5社の外画担当者との懇談会が行われました。

この動きに呼応して行われたのが、民放在京5社との出演全般にわたる日俳連との団体協約作りに向けての話し合いです。話し合いはあくまでも法人格を持つ放芸協と民放5社との間で進められました。従って、放芸協を代表するのは佐々木孝丸理事長。ただ、日俳連の著作権審議委員の出席、マネージャー、新劇団マスコミ担当者の出席も認めるよう要求しました。

民放テレビの出演条件もさることながら、この当時、大きな問題とされていたのがNHKの出演料適正化の問題でした。NHKとは放芸協が事業協同組合として認可された直後の1969(昭和44)年3月、団体協約を締結して祝福までされたものでしたが、その出演料の低さは、文字通り、生活を犠牲にしてのものと言っても過言ではなかったでしょう。この窮状が「自民党・総理招待による芸術文化団体との懇談会」によって打破されるきっかけとなったのです。

この懇談会は毎年秋に行われており、1971(昭和46)年は10月12日に、ホテル・ニューオオタニの芙蓉の間に文芸5、美術11、演劇9、映画4、放送2、洋楽9、邦楽11、その他の音楽5、舞踊8、華道1、茶道2、大衆芸能10、その他2の79団体が招待されました。一方、政府・自民党側は佐藤栄作首相、竹下登官房長官、高見三郎文相、今日出海文化庁長官、田村元自民党広報委員長ら11人。この席では、各団体の代表がそれぞれ3分間で自らの抱える問題点を報告するというものでした。ここで演説に立った放芸協代表・江見俊太郎氏の発言は強いインパクトを与えることになりました。ご本人の所属する事務所NACで同僚110人から集めたアンケートによって、NHKの出演料がいかに低額かを実証的に明らかにしたからでした。

それに加え、(1)NHKの出演料は安く、とくに中堅層の職業芸能人は生活できない水準である (2)物価の上昇に対する措置が全くない (3)基本出演料についてのNHKの考え方には疑問が多いが、NHKの予算は国会の承認が必要であり、放芸協とNHKとの2者間の話し合いでは解決できない、との問題点も指摘しました。これを聞いていた佐藤首相は、あまりのひどさに驚きを隠さなかったようです。田村広報委員長は、すぐに首相の心証を汲み取ったのでしょう。「佐藤総理からとくに斡旋を依頼されたというつもりで、党の責任において対処する」と述べたほどでした。

自民党の対応は本当に素早いものでした。懇談会からわずか2週間後の10月25日、自民党広報委員長の田村元氏は同党の広報委員室に佐々木孝丸・放芸協理事長と江見俊太郎常務理事、それに芸団協の久松保夫専務理事と渡辺広次事務局長を招請。NHKから放送総務局の山崎誠復総務局長、黒川徳太郎著作権部長ら3人、また自民党から山口シズエ広報副委員長ら4人を呼んで、早速、具体的な改善策を講ずるよう強く働きかけました。この結果は、翌1972(昭和47)年6月からの出演料改定となって現れます。最低基準出演料ではテレビが1000円アップの4000円に、ラジオが500円アップの3000円に、そして物価上昇に伴う出演料スライド制も導入されることになりました。これをきっかけに基準出演料のアップはその後も続くことになり、1973(昭和48)年6月からはテレビ、ラジオとも5000円に引き上げられます。

日俳連の初仕事

日俳連創立後、初の事業はテレビ映画のリピート放送料支払いに関わる製作プロダクションとの覚書の締結でした。前にも記したように、現行の著作権法は実演家の新しい権利として「著作隣接権」を認めました。しかし、「映画」に関しては例外措置を設け、実演家の権利をいくつも奪い取ってしまったのです。しかも、悪いことには、本来放送用として製作される番組なのに、放送局以外の製作会社が製作するドラマだとこれに「テレビ映画」という名を付けて「映画扱い」、そしてリピート放送料の支払い対象から外すという措置までとられるようになっていました。

そこで、この問題の解決に立ち上がったのが新発足の日俳連だったのです。交渉を申し入れたのは、映画監督の中でも最も著名な一人、木下恵介氏の主宰する「木下恵介プロダクション」でした。1971(昭和46)年12月12日に開催した第1回全国理事会の席で問題提起がなされると、早速、芸能マネージメント協会との協力体制が組まれ、木下プロが製作し、TBSで放送された同プロの作品「冬の雲」について、1971年12月7日~72年2月1日までの間、33本各1回につき、ネット及びリピート放送に関する出演者への報酬料率を「出演料が1万円未満の者には作品1本につき20%」「1万円以上3万円未満の者は同15%」「3万円以上10万円未満の者は同12%」「10万円以上の者には同一律1万2000円」などという覚書が締結されました。

報酬料率が適正であったかどうかについてはいろいろと評価もありましょう。ただ、放送用テレビドラマが、放送局外の製作会社(いわゆる下請け)で製作されたというだけで「映画」扱いになる矛盾を、発足間もない日俳連が突き、業界の悪習に風穴を開けたことは高く評価すべきことだったといえるでしょう。