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2000年 | 日本俳優連合30年史

約12分
2000年 | 日本俳優連合30年史

-2000年-

20世紀最後の区切りをつける「ミレニアム」という言葉が流行語になりました。年末には“99年”から“00年”への転換でコンピューターが誤作動を起こし、世界中が大混乱に陥るのではないかとの心配が出て、大騒ぎになる一幕もありました。

また、何故かこの年には15歳から17歳という若年層の男の子が次々と凶悪事件を引き起こし、「17歳の狂気」との言葉も生まれました。福岡県では路線バスを乗っ取って乗客を刺し殺す事件、岡山県では高校の野球部で仲間を金属バットで殴ったうえ、帰宅して母親を殴り殺す事件が発生したのです。そのうえ、大分県では理由もなく近隣の一家6人を殺傷するという、尋常では考えられない、事件も発生したのです。

薄気味悪い世相を反映するかのように、経済界でも不安を掻き立てるような事件が相次ぎました。中堅生命保険会社の第百生命、大正生命が破綻、損保でも第一火災が金融監督庁から業務停止を命ぜられました。一昔前までは「保険会社が潰れるなんて考えられない」と言われたのに、人間は時代とともに概念を変えねばならないことを実地に教えられるような20世紀の最終年となったのでした。

WIPO外交会議、再び不調に

2000(平成12)年12月20日、スイスのジュネーブにある国際会議場からは多くの落胆の声が漏れました。WIPO(世界知的所有権機関)の外交会議が、結局、新条約採択の合意を形成することができずに決裂してしまったからでした。1996(平成8)年12月に採択された「WIPO実演・レコード条約」(WPPT)の規定に合わせて映像に関わる実演についても実演家の人格権や経済的権利を確立すべく、4年もの歳月を費やして検討してきた「WIPO視聴覚的実演条約案」が残念な結果に終わってしまったのです。

先にも記したように、「WIPO実演・レコード条約」は、映画のサウンドトラックのように映像作品から音だけの実演を取り出して再利用する場合、出演していた実演家には人格権や経済的権利が認められることになっています。しかし、映像が伴う再利用、すなわち映画のテレビ放映、レーザーディスクやDVDへの転用には実演家の権利は及びません。「姿が見えると権利が消える」という、世にも不思議で、いびつな状況を正当化してしまった国際条約なのです。ですから、世界中のほとんどの国の俳優や音楽家、演芸関連の芸能人、舞踏家ら一斉に反発し、自国の政府を突き上げてWPPTの改正あるいは新たに「WIPO視聴覚的実演条約」を採択するよう求めてきたのでした。

ところが、このWPPTの改正あるいは新条約の採択には激しく反対する勢力があります。これも以前に説明したことですが、ハリウッド資本からの工作を受けたアメリカ政府です。視聴覚的実演、言い換えれば映画やいわゆるテレビ映画が再放送やビデオ転用されるたびに出演した実演家の「氏名表示権」や「名誉・声望を侵害しない権利」を気遣ったり、目的外使用料の支払いに応じるようなことになれば、世界中の市場を席巻しているハリウッドにしたら、これまで確保してきた利益を大きく削減されることになってしまうでしょう。そこで、アメリカ政府や議会に強く働きかけ、外交会議での条約採択を妨害しようとしたのです

そればかりではありません。ハリウッド資本にとって最も重要なのは、映画のような視聴覚(映像)作品が出来上がった際、その著作権をはじめ経済的権利がどこに帰属するかです。権利が一部でも出演者に帰属するとなれば、それだけハリウッド資本の得る利益が削減されてしまうことになります。だから、アメリカ政府は「出来上がった作品の著作権など経済的権利は製作者に移転する」との主張を譲ろうとしませんでした。

逆に、出演者の立場は、出来上がった作品の二次使用などに当たっては、当然、使用料の分配を得る権利を確保したいと言うことになります。

外交会議での議論は、この「権利の移転」問題に集中しました。ハリウッドの意を受けているアメリカ政府は「権利は製作会社側に帰属すべき」との主張を譲ろうとしません。議長が妥協案を提示しても頑なに拒否するありさまでした。少数ですが、アメリカの動きに同調する国や地域もあります。インド、台湾、香港のようなところは映画産業が活発で、これから先も国策のような形で育成しようとしていますから、企業の利益を損なうような新たな動きには、基本的に反対なのです。これらの国と地域はアメリカ政府に同調するような姿勢を見せていました。

アメリカに関しては、もう一つ、厄介な問題があります。というのも、(これまた前に説明した)全米を統一し6万人からの芸能人で組織する労働組合、SAG(スクリーン・アクターズ・ギルド)が、新条約の採択に消極的になっていることです。SAGはハリウッド資本とは強力な労働協約を結んで組合員の利益を確保していますから、何もいまさら新たな条約や自国の法律の改正など必要ない。大事なのは協約に基づく「契約」だと言ってFIA(国際俳優連盟)の行動にも賛同しようとはしないのです。

こうした背景を受けて、外交会議を前にした議長のユッカ・リエデス氏(フィンランド政府代表)は20条の条文から成る「WIPO視聴覚的条約案」を提示しました。12月7日から20日まで行われた外交会議では、この議長案をたたき台として、徹夜に次ぐ徹夜の会議が展開されました。新条約を成立させようとするEU(ヨーロッパ連合)、日本などを中心とする勢力。阻止をねらうアメリカ中心の勢力。その折衝は大変な力のでしたぶつかりでした。

その結果、「実演家の人格権」に関する妥協は成り立ち、アメリカも20条の条文のうち19条までは賛同することになりました。しかし、「権利の移転」については最後まで妥協しようとはしませんでした。と言うわけで、「姿が見えると権利が消える」状況は、まだ数年、据え置かれたままとなってしまったのです。この状況を打開するには、また時間をかけ、世界規模での交渉が必要となります。

日本アニメは本格訴訟へ

2000年2月14日、日本俳優連合・外画動画部会に所属する声優381人は、東京地方裁判所民事第44部に、日本アニメーション株式会社と音響映像システム株式会社を相手取って「放送番組の目的外使用料未払い分」の支払い請求をする訴えを起こしました。請求金額の総計は約9700万円でした。99年8月に東京簡裁に「調停」による問題解決を求めて申し立てを行った際には430人(請求金額1億6000万円余)だったものが、人数、金額とも減ってしまったのは、調停から本訴までの期間が15日とあまりにも短かったことと、やはり本訴もなると「製作者とのトラブルを避けたい」という気持ちの働いた人が出たためでしょう。

それでも、原告が300人を超える裁判は俗にマンモス訴訟といわれ、裁判所でも気を引き締めての対応になると言われています。裁判官は、日俳連側が提出した「アニメ番組の音声製作に関する協定書」(日俳連・音声連・日本動画製作者連盟で1981年10月1日に締結)や「外画・動画出演実務運用表」などの証拠書類には、つぶさに目を通し、問題の所在を適格に把握したようでした。

訴訟は、一時裁判所側から提起された「和解」による解決を被告側(日本アニメと音響映像)が拒否したため長期化の様相を呈し、約半年の間、証人調べや新たな証拠書類、さらには原告の主張の正当性を裏付けるための鑑定人の申請に関わる弁論準備が行われました。

「演じる喜び 観る楽しさ」

テレビ番組がバラエティに富むようになり、パソコンゲームも発達したことで若年層が生の演劇をみる機会が減少したと伝えられています。現に、商業演劇や既成新劇団の舞台公演では観客席の大半は団体などの中年の女性客で埋められ、若年層のファンは少ないという事態がここ数年続いているようです。

これではいけない。若年層に舞台の面白さを味わって欲しい。味を占めて欲しい、というわけで、日俳連の事業委員会は東京・神宮外苑の日本青年館とタイアップして春秋の修学旅行シーズンに同館に宿泊する小、中学校、高校の生徒を対象に舞台のエキスを披露することにしました。イベントの宣伝と学校側からのリクエストは日本青年館側が取りまとめ、日俳連は要望に応じて出し物をプロデュースするというわけです。この企画は、立案当時に事業担当理事で、その後病没された粟津號氏が橋渡しの労を執り、進められました。

アクションは楽しい

企画を立てたばかりで、当初は、どの程度の反応があるのか、と心配されましたが、それでも2000年4月には山形県寒河江市の綾南中学校から第1号のリクエストが入りました。希望の演目は「殺陣・技闘」。希望の期日は24日とされました。日俳連では、早速、高瀬道場を主催する高瀬将嗣氏に依頼して実演をプロデュースして貰いました。

実演の当日、修学旅行生たちは夕食を済ませ、トレーニングウェアで身を包み、青年館の中ホールに集まってきました。約300人を収容するそのホールは、同中学3年生男女300人を着席させるのにまさにぴったり。最初は映画の中で実際に展開される生々しい映像に驚きの声をあげ、次には高瀬道場に所属する俳優が実際に演じてみせる殺陣やアクションに目を見張って、全部で1時間半の実演に盛んな拍手を送ったのでした。

「本物らしく見せるのも大事だけれど、まずは安全第一で」との解説に、納得した様子の生徒たちは、最後には舞台に上げて貰って殺陣の大立ち回りに参加して大喜びでした。やってみると初歩でも意外に難しい、そして他人がやっているのはとてもおかしい。プロの俳優が見せてくれる実演では驚嘆の声をあげていた生徒たちは、自分たちの仲間がステージに上がる番になると終始笑い転げて楽しい時間を過ごすことができたようです。

狂言「附子」

修学旅行生を対象のパフォーマンス第2弾は、2000年10月25日、やはり日本青年館の中ホールで、日俳連リフレッシュの会、能・狂言グループが有名な狂言「附子(ぶす)」をプロデュースしました。リクエストをくれたのは静岡県の麻機小学校6年生。国語の教科書にも載っている「附子」を実際に見てみたいというのがリクエストの理由です。

太郎冠者と次郎冠者の二人が主人から「毒入りだから蓋を開けてはいけない」といわれている壺を前にして、開ける開けないのいさかいの後、結局は開けて中の黒砂糖をみんな舐めてしまうという喜劇「附子」は、本来なら、俳優の腕の見せどころです。しかしながら、この時点では能・狂言グループとしては準備不足だったので、大蔵流家元の息子さんとそのお弟子さんにお願いしました。観客の小学生からはやんやの大喝采となり、また見たいとの声が掛かるほど。そこで、能・狂言グループは、翌2001年11月14日、同じ麻機小学校の児童に、今度は自分たちの力で狂言「萩大名」を上演してみせることになりました。

外画動画のランク制度改革

外画動画部会の組合員が、毎年、音声連に申請して決める個人の基準出演料「ランク」は、ランク制度が確立されて以降、「一度上げたら下げられない」決まりになっていました。下げることができることにすると、放送局や製作会社からの圧力で、折角勝ち取った基準出演料が無意味になってしまう、との危惧があったからです。しかし、時間が経過するにつれ、別の考え方が出てきます。

「ランクの高さが俳優としての格を表す」として「上げること」を各自の目標にしてきたランク制度でしたが、高額の組合員からは「出演料の高額を理由にキャスティングからはずされる」との苦情が多発するようになってきたのです。

苦情を持つ人は「ランクは俳優としての自分の売値なんだから、自分で自由に設定できるようにして貰いたい」と言います。一方、制度擁護派は「みんなの努力で確立したランク制度なのに、自分で上げ下げできるのなら制度がないのと同じではないか」と反論し、外画動画部会内は、一時、混乱状態になりました。97年4月7日の部会総会では始まった議論が4時間を超える議論でも結論に至らず、それから2年半後の99年9月7日に実施した部会総会での投票の結果、投票総数591票のうち賛成531票(89.8%)で、ランク制度は改正されることになったのです。1991(平成3)年、出演費枠の拡大後、バブル崩壊に伴って、再び、出演費枠が縮小傾向を辿ったことが全ての原因でした。

新しい制度では、「毎年のランク改訂時に、最低ランクを下回らないことを条件に、個人の意志で上げ下げが自由にできる」ということになりました。実施は2000年1月1日でした。

日本映画振興基金構想まとまる

低迷する日本映画を如何に活性化するかの議論は、過去に政府の中でも進められてきました。1994(平成6)年の文部省(現・文部科学省)・文化庁による「映画芸術振興に関する調査・研究協力者会議」、1996(平成8)年の通商産業省(現・経済産業省)による「シネマ活性化研究会」、1998(平成10)年の同じく通産省による「映画産業活性化研究会」等々。映画製作者、映画製作スタッフ、俳優、映画評論家、学者、関連企業関係者で構成された各会議は、それぞれにそれぞれの立場から問題解決に向けての提言をしています。しかし、現実には具体的な改善策が採られないまま、日本映画の全般的衰退は継続しているのです。

こうした中で日本映像職能連合(映職連)、日俳連、映画演劇関連産業労組共闘会議(映演共闘)の三団体で構成する映像三団体連絡会は、1992(平成4)年に開催したフォーラム「国際化・多メディア化時代の日本映画」以来の議論を経て、映像メディアに必要な要素は

  1. 日本映画に対する支援体制の確立
  2. 映画製作、配給、興行に係る諸規制の緩和
  3. 将来の日本映画を担う人材の育成
  4. 映画の創造に携わる者の社会的地位の向上

であるとの結論に達し、その実現に向けて「日本映画振興基金」を創立することが不可欠との提案をすることになりました。

外資系を中心としたシネマコンプレックスと呼ばれる多重スクリーン映画館の急増は日本の映画ファンをますます洋画嗜好にする働きを持っています。それに引き替え、日本映画製作会社は、自社の撮影所も維持できなくなって売却するありさまです。総合芸術といわれ、製作に多大の先行投資を必要とする映画では、どうしてもそれを支える資金の出所としての基金設立が必要条件の一つになります。

映像三団体連絡会では、この視点に立って、2000年7月、「日本映画振興基金構想」をまとめ、国会、政府機関を始め関係方面に、広く配布しました。

遅ればせながら、この年、日俳連のホームページが本格的に立ち上がりました。直接のきっかけは、日本アニメ・音響映像との裁判の進行状況を世間的にアピールしようとの試みでした。しかし、日俳連として世間に発進すべき情報は他にも沢山あります。機関誌「日俳連ニュース」の転載、主要イベントのPR等々…。世間ではとっくに手掛けていることでしょう。後発ではあるものの、IT時代の進展をただ見過ごしているわけにはいかないというわけで、スタートさせたものでした。

この年、長年にわたり日俳連の役員を務められた小泉博氏が第一線から退かれることになりました。小泉氏は、1972(昭和47)年に理事に当選されて以来、28年間にわたって理事、常務理事、副理事長を歴任され、その間の1985(昭和60)年から97(平成9)年までは芸団協の専務理事を併任された方です。日俳連の副理事長辞任後は常任顧問として諸活動へのアドバイスをいただくことになりました。