-1988年-
この年は太平洋戦争後のわが国の歴史の中でも、ニュースの多い年の一つに数えることが出来るでしょう。最も大きなニュースは、9月に昭和天皇が体調を崩され、病床に伏してしまわれたことでした。国事行為は皇太子(現天皇)に委譲され、天皇の国内ではご病状を察して歌舞音曲を自粛するムードが高まりました。繁華街でのカラオケにはじまり、大学のオーケストラや合唱団の合宿練習などが中止されるといった緊張した雰囲気が全国的に広がったのでした。昭和天皇は翌1989(昭和64、平成元)年1月7日に崩御され、第二次世界大戦、太平洋戦争を挟んで激動の続いた「昭和」の元号は終わりを告げることになります。
放送番組のビデオカセット市販で権利処理
1988(昭和63)年1月7日、日俳連は、放送番組として作られたドラマの目的外使用に関する俳優への使用料分配という責任の重い仕事に着手することになりました。これは、芸団協からの委託による新規事業です。
芸団協と日本民間放送連盟(民放連)との間には1980(昭和55)年10月に締結した「テレビ放送基本協定」により、民放連傘下の放送局が放送番組をビデオカセット化したりして市販する場合には俳優側(芸団協)の許諾を得るとの決まりがありました。これに基づき、最初にビデオカセット化を試みたTBSと日本テレビ、ユニオン映画は「大久保清の犯罪」「イエスの方舟」(以上TBS)と「白虎隊」(日本テレビ、ユニオン映画)に関して、芸団協に俳優への目的外使用料の支払い条件を交渉してきたのです。このように、本来の制作目的である放送の後、ビデオカセットなど別の目的で売り出した物の使用料を出演者に分配することを「権利処理」といいます。TBSと日本テレビの権利処理は、その最初のケースとなりました。
しかし、権利処理とはいっても、まだ発売されるビデオの本数が少ないために、個人への分配額は小額に過ぎません。例えば、「大久保清の犯罪」「イエスの方舟」の場合、ビデオの発行1000巻までは総額120万円。1000巻を超えると、500本ごとに25万円追加という具合だったのです。この作品に出演した俳優は全部で93人でしたから、1人当たりの分配額は、せいぜい1万5000円程度だったのです。
とはいえ、こうして目的外の使用料が出演者の手に渡るようになったことは、それだけでも画期的なことだったのです。この分配作業は、その後もずっと、芸団協さらには芸団協・著作隣接権センター(CPRA)の代行業務として日俳連事務局の手で行われ、2002(平成14)年以降、映像実演権利者合同機構(PRE)に移行されることになります。
ショッキングな実態公表
1988(昭和63)年9月号の「オール讀物」(文藝春秋社)にショッキングな記事が掲載されました。筆者は永井一郎氏。1984(昭和59)年9月から1986(昭和61)年8月までの1期間、外画動画部会の委員長を務めた声優の重鎮です。「磯野波平ただいま年収164万円」と題したそのレポートは、テレビの人気アニメーション番組「サザエさん」に主人公の父親(波平)役として毎週レギュラー出演している人間の年収が如何に低額であるかを赤裸々に記したものでした。「国民的番組のレギュラー声優なのに、収入が生活保護世帯より劣るとは…」との副題が付けられているのを見て、はじめて、ヤヤッ! と感じ取り、真剣になって読むのですが、とても信じることの出来ないようなその内容には、心ある者は憤りを覚えずにはいられないものでした。
永井氏は
「サザエさん、家中で見てるよ。あれ、どれくらい貰うの。1本、30万くらい?」
いくら遠慮のないクラス会とはいえ、これにはぶったまげたと、記しています。
この書き出しで7頁にもなるそのレポートは、世間の常識と声優が実際に製作会社から受け取るギャラの額との違いを表現しているのです。1本30万円のギャラを受け取ることが出来れば、年間52週の出演で収入1560万円。源泉徴収税10%を差し引かれたとしても年収は1404万円になります。
だが、実際のギャラは1本につき4万3200円。年52本で224万6400円。それに予告編への出演が年7回あって、それが出演料の10%だから4320円×7=3万240円。合計227万6640円。ところが、これが全部永井氏の収入かというとそうではありません。所属事務所に手数料20%、手数料を差し引いた残高からさらに源泉税が引かれるますから、最終的には契約出演料の72%しか受け取ることが出来ません。その額が正確には163万9181円、丸い数字で表すと164万円にしかならない、というわけなのでした。
164万円を12ヶ月で割れば、1ヶ月の収入は13万7000円足らずになってしまいます。永井氏が、手元にある「情報データブック」(平凡社刊)で調べてみたら、6年前の1982(昭和57)年現在で、標準4人世帯に対する生活扶助基準額が14万3345円。なんと、国民的人気番組のレギュラー出演者の収入は生活保護世帯よりも低いというショッキングな事実が分かったのでした。
永井氏は、その後、“闘争”と“交渉”で、30分番組の基本出演料を4万5000円と設定出来るようになります。それに2001(平成13)年の時点では、1本の番組出演時には基準出演料に「目的使用料」80%が加算されるという出演料計算方式が確立しましたから、永井氏の「30分アニメーション番組出演料」は4万5000円×1.8=8万1000円が確保されるようになりました。しかし、そうはなっても…。
1年間の総出演料は8万1000円×52週=421万2000円。これに予告編出演料が基準出演料の10%(1988年時点では出演料の10%でした)で、4万5000円×0.1×7回=3万1500円。両方を足した1年間の出演料総額421万2000円+3万1500円=424万3500円から所属事務所の手数料424万3500円×0.2=84万8700円を差し引くと339万4800円が年間収入額となり、最後にここから源泉税339万480円を差し引かれて305万5320円が永井氏の手取り収入になるというわけでした。
高視聴率を誇り、日本を代表するアニメに出演するベテラン俳優の出演料が年間305万円強。永井氏はこの声優残酷物語を、是非広く、世間に知らせなければならない、と強調しているのです。
軽井沢でドラマ・ロケ中に死傷事故
1988年7月30日午後0時30分頃、長野県軽井沢町でロケ撮影が行われていたテレビ朝日のドラマ「軽井沢シンドローム」で、主演の堤大二郎氏(当時26歳)運転のロケ用ワゴン車が道路中央の立木に激突。荷台に乗っていた製作会社の音声担当、中山文男氏(当時47歳)が死亡、堤氏が口内裂傷、鼻骨骨折、肋骨骨折で2ヶ月の重傷を負ったのをはじめ、助手席にいた落語家、林家こぶ平氏(当時25歳)ら6人が重軽傷を負うという事故が発生しました。堤氏は、重傷を負いながらも、事故を発生させた被疑者として警察から事情聴取を受ける立場でもありました。
しかし、事故当事者を被疑者として事故原因を追及する警察は、4WD車を運転していた堤氏自身と同時に、演技をしながら運転もしなければならないという負担を強いたテレビ朝日のディレクターにも刑事責任があるのではないかとの見方をするようになりました。すなわち、運転中の会話シーン撮影で、カメラを意識しなければならず、そのような指示を出していたディレクターに業務上過失はなかったか、という見方でした。また、通常、この種の場面では、運転手の乗った車の前輪を浮かせ、レッカー車で引っ張りながら撮影を行うのに経費を節減するために俳優に無理を強いたのではないかとの疑いも出されました。
俳優側に一方的な事故責任を押しつけるのは不合理だとする日俳連では、労働災害問題を担当していた玉川伊佐男常務理事が先頭に立ち、テレビ朝日側の責任を明確にするための運動を展開、国会の場でも問題追及するよう働きかけました。また、同じ現場で死傷事故に巻き込まれた人が7人いながら、テレビ朝日が労働災害補償保険(労災)の適用申請をしたのは自社の社員1人だけだったことから、社会党(現・社会民主党)の参議院議員で同院決算委員の及川一夫氏は、1988(昭和63)年10月9日に開催された決算委で質問に立ち、「同じように監督の指示で仕事に当たりながら、雇用関係を持っている社員だけしか労災申請できないのはおかしい」と政府を追及しました。
日俳連は、こうした一連の動きの中で、数々の調査資料を提供しました。テレビで放送されているドラマのうち79.4%が放送局から注文を受けた所謂下請け製作会社で製作されている実態、これまでドラマに出演して大なり小なり負傷した経験を持つ俳優が30%もいる事実、負傷を負っても補償を受けたことのない俳優が33%強に達する事実、無補償でも後遺症の残るケースが53%に達する事実などです。
こうした日俳連側の動きに対して、テレビ朝日では田代喜久雄社長(当時)が「今回の場合、当方に油断があり反省している」として、補償問題は全面的に責任を持つとの態度を明らかにしました。
労働省が「安全対策」を通達
軽井沢シンドローム事故が国会でも取り上げられ、社会的な反響を呼ぶ中で、日俳連は1988(昭和63)年11月18日、労働省(現・厚生労働省)に労働基準局長を訪ね、「俳優の労働対策」を請願しました。そして、その成果の一部が、翌89(昭和64)年3月13日、労働基準局長通達という形で結実します。この通達は「テレビ番組等の制作の作業における労働災害の防止について」と題され、日本民間放送連盟、NHK、全日本テレビ番組制作者連盟(ATP)、日本テレビコマーシャル制作者連盟(Jac)には要請の形で、また全国都道府県の労働基準局に対しては「関係企業に徹底させるように」と通達されたものです。芸能の制作現場の安全を徹底させる目的でこの種の通達が出されたのは、これが初めてのことでした。
殺陣グループのショック
軽井沢シンドローム事故のほとぼりも醒めやらぬ1988(昭和63)年12月26日、今度は、広島県福山市の総合レジャー施設に設けられたオープンセットで撮影中の勝プロ制作、勝新太郎監督の「座頭市」シリーズで、真剣を持って立ち回りをした勝氏の長男、奥村雄大氏の刀が、俳優、加藤幸雄氏の首に刺さり、死亡してしまうという事件が発生しました。
この事件は、殺陣を専門としている俳優にとっては「本当に考えさせられる事件」となったのでした。殺陣の俳優は、演技が最初から危険と隣り合わせということで、保険に加入しても「C級」といわれる保険料が高くて保険金が低いという悪条件に当たってしまいます。それに、制作者側は人件費の節約から、学生アルバイトを使ったりして危険この上ないという状況になっていました。
「これではいけない」とまだ未加入だった殺陣グループの人たちは、日俳連との交流を積極的に進めようと、翌89(昭和64)年3月7日、日俳連に11グループから代表格の人15人が集まり、第1回の懇談会を開きました。