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1990年 | 日本俳優連合30年史

約7分
1990年 | 日本俳優連合30年史

-1990年- 民放テレビ局との団体協約

民間放送テレビ局との間で「団体協約」を締結しようとの具体的な動きは、1989(平成元)年3月23日 から始まりました。直接のきっかけは「軽井沢シンドローム」事件です。ドラマの撮影中に死傷事故が発生するというショッキングな事件は、それまで再三にわたって団体協約の締結を迫っていた日俳連にはもちろんのこと、締結交渉の席に着くことを先延ばしにしようとしてきた民放各局にとっても極めて強いインパクトになりました。最早、決して放置しておくわけにはいかないという状況になってしまったのです。ただ、そうは言っても、全国に散在するテレビ局全部を同時に交渉対象とするわけにはいきませんから、まず、順序として東京のキー局、すなわちTBS、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京の5局との交渉からスタートすることになりました。

交渉は5回にも及びました。第1回は上記の通り89年月29日、次いで同年4月17日に第2回交渉。同年10月23日の第3回交渉では、テレビ局5社側からの原案提示。同年11月27日の第4回交渉では日俳連案の提示。そして1990(平成2)年2月26日の第5回交渉では5社側が改定案を提示し、概ね合意。同年4月19日の調印となるのです。

第1回の交渉の際には、日俳連側が、安全条項と災害補償条項を含んだ協約の締結を最初に提示しましたが、現実には災害補償が明文化されて盛り込まれるところまでは進みませんでした。俳優をはじめ実演家が希望する労働災害補償保険(労災)は、労働基準法第9条に規定する「雇用関係が前提」という大きな壁があるからでしょう。テレビ局側から、協定の中に労災を含めることの合意は取り付けることは出来ず、結局「作業中に、組合員(日俳連組合員)に事故が生じた場合には、当該組合員またはその代理人(マネージャー)と協議のうえ解決する」(第13条)との条文に落ち着いてしまいました。

しかし、問題は抱えながらも、出演条件に関する合意はスムーズに進みました。そこで新たに出来た団体協約の特徴を列挙すると

  1. 出演スケジュールの明示と遵守 (第2条)
  2. 出演契約書を省略しても、この協約が契約であるとみなす (第3条の2)
  3. 最低基準出演料と割増率の設定 (第6条、第7条)
  4. 出演取り消しの際の責任の明確化 (第8条)
  5. 再編集をする際、俳優の名誉、声望を傷つけない (第12条)
  6. 演技指導料、方言指導料の明文化 (第10条)

などとなります。

調印式は1990(平成2)年4月19日、東京・日比谷の東京會舘で行われ、同年4月1日から発効ということになりました。また、団体協約は大阪に本社を置くテレビ・キー局5社との間でも、この協約と同じ内容で1992(平成4)年4月1日に、さらに名古屋、三重、岐阜など東海地区に本社を置くテレビ7社との間でも同じ内容で1994(平成6)年4月1日に締結されています。

アニメの「白味線取り」対策

日俳連に所属する声優がこぞって立ち上がり、東京都心をデモ行進し、24時間の統一出演拒否を行って「出演料3.14倍」を獲得したのは、1973(昭和48)年夏のことでした。それから12年。闘争後のメンテナンスが悪かったのか、世間の動向が早すぎたのか、声優の出演条件に関わる待遇は、またまた、悪化の一途を辿っていました。その典型的な例の一つがアニメーションの音声収録時に製作会社が行う「白味線取り」という手法だったのです。

「白味線取り」――。奇妙な言葉ですが、これは未完成のアニメに音声を当てていく収録方法を指しています。しかも、アニメの未完成度が半端じゃない。右の図を見ていただけばお分かりのように、極端な場合には、アニメは人の口の部分しか描かれていないのです。声優たちは、その線で描かれた口の動きだけを見ながら台詞を読んでいき、収録を終えてしまう。ドラマそのものが、どのような場面で、主人公がどのような表情をしているのか、などは声の主が適格に想像しながら吹き込まなければいけないというわけです。ドラマに出てくる登場人物や動物は1人や2人、1匹や2匹ではありませんから、配役を当てられた声優たちは勝手に想像することは出来ず、同じ場面の想定を統一するだけでも余計な負担をかけられるというわけなのです。

では、どうしてこんな無茶なことが行われるようになってしまったのでしょうか。

1989(平成元)年7月15日付けの日俳連・外画動画部会の機関誌「VOICE」には、同部会の委員長、池水通洋氏(現・日俳連常務理事)がこんな文章を掲載しています。

我々には15年前の「怒り」と「忍従」の状況が、そっくりそのまま残されている勘定になる。闘争の後、やっと世間並みの報酬を得ることが出来た俳優側の気のゆるみから「ジュニア」の発生を放置し、また数々の限定付き値引きを習慣づけることになった。俳優側だけではない。闘争以後、交渉の直接の相手である音声連は、残念ながら私たちが提示する条件の大部分を局から獲得できていないばかりか、さらに値引き交渉を持ちかけてくる有様だ。

一方、マネージャーは、所属の俳優を売りやすくするため、ランクアップを渋り、「ランク」が事務所間の商売上の駆け引きに利用され、ギャラが低迷する原因となった。現在の状況は、関係3者で作り上げたものと言える。

この文章中に出てくる「ジュニア」とは、声優の養成所などを卒業して各事務所などに所属が決まったばかりの「新人」を意味しています。プロ野球でいえば「ファームで訓練中」の選手のような半人前扱いの人たちです。まだ、基準出演料すなわち「ランク」を与えられず、2年間はその身分に甘んじなければなりません。しかし、プロ野球の中に高校を卒業したてでもチームの主力選手として活躍する人が出てくるように、声優の世界だって一定の訓練を受けた直後からスターになってしまう人が出現します。ところが、プロ野球なら活躍した翌年には、一気に、年俸が上がるのに対し、声優の世界では2年間は固定で、最低額の「ジュニア・ランク」で据え置きとされてしまうのです。

このことは、結果としての声優の待遇悪化を促進してしまいます。なぜなら、優れた新人が見つかったとなると、その人を抜擢し、安い出演料で出演させてしまえば製作会社にとって有利だからです。こうした動きはベテランを抱えたマネージャーに焦りを感じさせ、出演の機会をつかむためにはランクアップを自粛し、総体的に出演料低迷の実態を生み出してしまうのでした。

話は戻りますが、「白味線取り」の問題が浮上してきたのも、上記のような背景が下地になっていたからです。出演したい声優には多少の悪条件をのんで貰おう、との気運が高じて行き着くところまで行ってしまったということでしょう。事態の打開を目指す外画動画部会は1991(平成3)年3月12日、都内で決起集会とデモ行進を企画、これをテコとして放送局との間での出演条件改定の交渉に入ることになります。

芸術文化振興基金のスタート

日俳連の歴史と直接結びつく話ではありませんが、この年、国の文化予算とは別枠の文化政策基金として「芸術文化振興基金」がスタートしたのは、金額の多寡はともかく文化の時代に向けての好ましいニュースとなりました。この基金は1990(平成2)年3月29日、国立劇場法の一部を改正する法律が国会で成立し、これに「芸術文化振興基金に関する援助方針と援助対策」などの付帯決議が付けられたことから作られたものです。

当時、日本の文化芸術関係予算は年間、国民1人当たり83円で、フランスの2392円と比較すると29分の1、イタリアの1545円の19分の1、イギリスの1443円の17分の1と言われていました。こうした状況を、直接予算を増額するのでなく、補填する方法として考えられたのが芸術文化振興基金です。

基金の規模は600億円。国の予算規模は101億円(平成元年度)でしたから、この基金を基にして、その運用益30億円が年間の使用可能規模とすれば、国家予算が30%弱増額されたのと同様の効果を持つことになると言われました。

村瀬事務局長の退職

放芸協の設立に尽力し、1966(昭和41)年以降は、放芸協、日俳連を通じて24年間も事務局長を務めてこられた村瀬正彦氏が1990(平成2)年10月末をもって退職されました。これより日俳連の事務局長は1994(平成6)年まで空席となってしまいます。